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HISTORY

得重聖治の歴史

得重家に生まれた画家

遺伝と環境と創造と

画家、得重聖治は大分県玖珠郡玖珠町で少年期を過ごしました。
少し歴史的な側面を記しておこうと思います。

得重家はこの玖珠町を藩庁(森藩)とした来島という領主の家臣でした(※1)。この来島家のルーツは瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の後裔であり、関ヶ原の戦い以後この玖珠町(旧森藩)に山城を拠点に森藩を築きました。そのため得重家の家紋が水軍の帆に由来するデザインとなっています(※2)。
この玖珠町森にある博物館資料や表具店(大乗寺横)の資料によると当時の森藩の帳簿があり、得重家は200石だったそうです。
このように得重家は殿様の家臣で武家であったことから、この町の初代町長も、尋常学校初代校長も、初代郵便局長も、得重家だったようです。

また祖父の母の血には黒田長政(黒田孝高:黒田官兵衛の嫡男)の御抱え絵師(狩野一派)の血縁があるらしく、幼い頃に資料館で先祖(宮野伯順)が描いた屏風絵を見た記憶があります。この時に感じたのは「素朴でダッセー」という気持ちでした。そして「なんで日本の絵はどれも大人しくて攻撃性がないんだ」と、この時に自分の血にあるものへ怒りに似た感情も生まれました。

4〜7歳頃の遊びは、日本家屋に住んでいる近所の家の庭に勝手に入って水彩画を描いたり、神社で粘土を掘り出しロボットや恐竜や鯨など粘土細工し、それを友達の家の風呂の薪窯を使って焼き物を作ったり、日々集めていたかまぼこ板を釘で売ってロボットや建物や船を作ったり、広告紙の裏面に絵を描いたりと、誰が教えるでもなく完全に創作系の遊びをしていました。
また叔父は美術教師だったのでたまに叔父の家に遊びに行くと描きかけの絵を見かけていました。こうした時も「なんでこんな曖昧で濁った絵を描くんだろう」と感じていたのと同時に「大人が絵を描いて過ごしてて良いんだろうか」と思ったことを記憶しています。
このように過ごす環境と周囲の情報、触れるものと遊びがほとんど芸術系になっていたので、成るべくして成った専門家ともいえるかもしれません。

社会の状況が大きく変動しながら自分も大人になって、色々とやっと分かってきたことがあります。
この周囲にある多くのものは人が築き上げてきた創造と知恵と技術の結晶であり痕跡であること、そして人間一人より長生きであること。価値とは保存ができ、増加させることも可能であり、時に交換可能であり基準(尺度)にもなるといわれますが、この価値とは文化や状況というベースに成り立つものということ。
こうした事を理解した時に、価値的機能性である貨幣に支配されているものと、私が与えてもらったルーツや画家としての文脈に年を重ねてやっと心から感謝する気持ちになってきました。

私の画家としての人生は尽きるまで続き、私の作品は私以上の寿命であると信じています。
これからも与えていただいている事への感謝の気持ちを忘れず、作品を後世へ残す責任を胸に制作をしてまいります。

[参考資料と補足]
※1)「天正年間河野氏家臣団(出典:秀吉と海賊大名ー海から見た戦国終焉ー 藤田達生 著)」では、来島(久留島)氏は、伊予の守護大名家の河野氏の最有力の重臣で河野氏と血縁でもあります。河野氏は後に滅んだため、来島氏に従ったものと思われます。
※2)画像にある正岡家(25名)の正岡姓の人々は後の正岡子規とおそらく関係筋と考察されています。

玖珠町森にある博物館に掲げられた森藩の資料や文献や写真等

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